大津市で中学生が自殺した事件が頻繁に報道されるようになっておよそ2週間。被害届の受理を3度拒んだ滋賀県警が半年後になってようやく捜査に着手したようです。
「いじめた生徒にも人権がある」というロジックを自己弁護に用いた教育委員会に不信感を持ちこのニュースをフォローしてきましたが、この捜査着手のニュースを知っても素直に「良かった」と思うことはできず、滋賀県警の日和見姿勢に憤りを感じるばかりです。
世論に押される形で調査を開始した警察。世論の波ができなければ警察は動くことはなかったということ。4度目の被害届が提出される前に捜査を開始している訳ですから、当然被害届を受理することはできたはずなのに。
「いじめた生徒にも人権」はある。その通りです。でも、それが真実を知る妨げになってはならない。何故なら、この問題は「人命」に関わることだから。
人命の尊さは、加害者の人権よりも優先されるべきなのです。
組織に正義はない。
今回の大津の事件で、私は思いました。教育長も、被害届を拒んだ警察官も、彼らは人間でなかった。組織の構成要素、つまり歯車でしかなかった。だから、彼らに正義を要求すること自体、無意味だったんでしょう。歯車は正義を持つことができない。
正義や良心とは、人間だけが持つことのできる誇りある精神作用の一つなんだ、と私は思いました。
この事件では、インターネットを通じても多くの「正義」が主張され、それが大きな波を作っていったように思います。インターネットは匿名性があるためカジュアルに意思表示ができる。今回は多くの人が実名で、或いは匿名で「正義」を主張した。国民が権力を監視し、その権力を動かしたという点で、民主主義の原点が詰め込まれたような、意義のあることだった。
私は中学時代に多くの映画を見て、それが自分に大きな影響を及ぼしたと考えています。「真昼の決闘」「アラバマ物語」そして「評決」を見たのも中学生の時でした。
ポール・ニューマンが用意した原稿を置いて陪審員に語りかける最終弁論は、是非今の中学生にも見てほしい場面です。
You know, so much of the time we’re just lost. We say, “Please, God, tell us what is right; tell us what is true.”
And there is no justice. The rich win, the poor are powerless.
We become tired of hearing people lie. And after a time, we become dead, a little dead. We think of ourselves as victims and we become victims.
We become, we become weak. We doubt ourselves, we doubt our beliefs.
We doubt our institutions. And we doubt the law.
But today you are the law.You are the law.
Not some book, not the lawyers, not the, a marble statue or the trappings of the court.
See those are just symbols of our desire to be just.
They are… they are, in fact, a prayer: a fervent and a frightened prayer.
In my religion, they say, “Act as if ye had faith… and faith will be given to you.”
If… if we are to have faith in justice, we need only to believe in ourselves.
And act with justice. See, I believe there is justice in our hearts.
正義は自分の中にある。
我々は、常に自分の中から正義を探し出す努力を怠ってはいけない…そんな風に思いました。